飛鳥・奈良時代は、百済から仏教が伝来したことにより、日本が大きく変わっていった時代です。仏教の教えをわかりやすく示すために絵画の需要が増え、初めて日本で本格的な絵画制作が始まりました。
日本の絵画にとっての、第一歩と言える時代ですね!
それでは、詳しくお話ししていきます。
目次
仏教の伝来と本格的な絵画制作が始まるまで
6世紀の中頃、インドから中国大陸と朝鮮半島の百済を経由し、日本に仏教が伝わってきました。
寺や仏像などの新しい仏教美術や造形技術、仏教の力を中心とした、先進的な国づくりのシステムも伝わってきたんです。
国づくりと仏教について、分かりやすく伝えるため、美術や絵画を用いた布教が勧められ、日本で本格的な絵画制作が始まりました。
アジア各地の最新文化の導入と美術が国家プロジェクトに!
7世紀になると、遣隋使や遣唐使から、アジア大陸の文化や美術が輸入されるようになり、輸入してきた美術の日本化が進んでいきます。
そして平城宮や東大寺の造営が始まると、絵師たちの仕事が急増し、どんどん腕を上げていきました。このように飛鳥・奈良時代の美術や絵画は、国家プロジェクトの一環として発展していったんです。
飛鳥・奈良時代で有名な絵画
【法隆寺金堂壁画】インド風の表現で描かれた菩薩たち
仏教が伝来した飛鳥時代に、聖徳太子らによる仏教を中心とした国づくりの為に、法隆寺も建設されました。この壁画は奈良県斑鳩町の法隆寺金堂の壁面に描かれていた仏教絵画です。
アジアを代表する仏教絵画でしたが、1949年の火災でひどく損傷してしまったそうです。
鉄線描(てっせんびょう)や隈取りという、初唐で流行した、インド風のこってりした表現が特徴的です。朝廷の権威を表す威厳のある壁画です。
【高松塚古墳壁画】飛鳥時代の宮廷文化を表現した宮女像
高松塚古墳は、7世紀末から8世紀末にかけて築造されました。石室の壁や天井には、方位を司る四神図や太陽や月、男女の群像などが描かれています。
なかでも人物群像は、法隆寺金堂の壁画の技法との共通点も見られます。人物群像の服装は、当時の宮廷装束を反映していると考えられ、唐の文化が日本にも広がっていたと考えられています。
【鳥毛立女屏風(樹下美人図)】唐の美人画が反映された日本の屏風絵
とりげりゅうじょのびょうぶ(じゅかびじんず)と読みます。この絵は、唐で流行した樹下美人図の流れをくんで、日本で描かれた屏風絵です。
ふっくらとした顔立ちや、三日月形の眉などの描き方から、当時の唐の流行が伝わってきます。
屏風はもともと全6扇あり、樹下にたたずむ美人と、樹下の医師に座る美人が3図づつ描かれています。
絵の下地には、日本の行政文書が用いられ、女性の衣装や髪、樹木などの部分には、日本産のヤマドリの羽が貼り付けられていました。このことから、日本で制作されたことがわかっています。
まとめ
飛鳥・奈良時代の絵画いかがでしたか?
このころの日本は、アジアの文化から大きく影響を受けていた時代だと言えます。また、輸入した文化や美術、国づくりのシステムを柔軟に活かしているところなんかは、現代の日本人にも通じる器用さがあるのではないでしょうか。
また、美人画というのもこの当時から人気が高かったようですね!その当時、どんな女性が好まれていたのか、そのような視点で絵を見ると、より楽しく鑑賞できるかもしれません。
ぜひ、自分なりの面白さを見つけて鑑賞してみてくださいね。
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